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蕎麦切り

昼に麺類を食べることが多い。1年365日のうち、少なく見積もっても200日以上、おそらく250日ぐらいは食べていると思う。その大半が蕎麦切りである。


蕎麦はもともと現在のように細長く切った状態ばかりで消費されていたわけではない。蕎麦がきや蕎麦餅などのだんご状のものと区別するため蕎麦切りの名まえがついた。それが次第に蕎麦切りばかり食べるようになり、蕎麦=蕎麦切り になってきた。

実は蕎麦という字も本来は「そばむぎ」と読んだらしい。それがいつの間にか、そば=蕎麦 になった。大むかしから日本人は略すのが好きだったようだ。


一方で、麺といえば細長くつるつるしたものを想像しがちだが、元々は小麦粉製品のことを指す。同じ「麦」の字がついているが、本来の意味からすると蕎麦切りは麺ではないのである。

逆に小麦粉でつくるマカロニやペンネ、餃子や小籠包などは麺類に入るのだそうだ。


その麺類の末席に置かれているような蕎麦切りではあるが、わたしはこよなく食べる。絶対的な旨さでは小麦でつくるうどんやロングパスタにかなわないとは思うのだが、ついつい食べてしまう。なぜだろう。


ひとつには食べ慣れているというのがあるだろう。最近でこそ讃岐を始めとするうどん屋を東京でも見かけるようになったが、むかしは皆無だった。麺類が食べたいと思えば、祖母のつくる野菜うどんか店の蕎麦かということになり、蕎麦に軍配が上がっていた。
もうひとつは純なところに惹かれているのかもしれない。


蕎麦は小麦粉でつくる麺類と違って応用が利かない。ひと頃よくつくったアジアンヌードルと称する無国籍スープヌードルは、肉や野菜を炒めたのち湯を足してヌードルを入れるだけという簡単かつ栄養バランスのとれた昼の定番だったが、入れる麺はうどんでも素麺でもフォーでもよかった。

ナンプラーの代わりにブイヨンを入れればロングパスタですらオーケイである。しかし蕎麦を入れようと思ったことは無い。

蕎麦を食べる時は極めて古典的な方法なのだ。焼きもせず、煮込みもせず、ドレッシングをかけることもなく、ただ普通の蕎麦として食べられることだけに生まれてくる蕎麦。そんな純粋なところが気に入ってるのかもしれない。


蕎麦を食べる時は少量の葱と大量のワサビ、それに旬の天ぷらが添えられていると嬉しい。そしてそれは今時期、若芽が顔を出す初春の頃が最高だ。こごみウドたらの芽ふきのとう。新蕎麦の出回る秋よりもずっと待ち遠しかった季節なのである。

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